<概要>
米国の大学で、「偏った考え方をし、脆くて不安で容易に傷つく学生」が目立つようになり、大学がなしてきた教育や大学の在り方そのものが揺らいでいる。そうした現象や、そうした現象を引き起こしている背景を考察した書籍。
①子どもをあらゆる危険から守ろうと”保護”することで、危険でないことにも恐怖を感じるようになる(反脆弱性)
②主観的な感覚・感情を疑ったり客観的・理性的に検証することなく肯定するように促されることで、客観的に危険でないことを危険と感じたり、他者の意図を悪く解釈する考え方が修正されない(感情的決めつけ)
③世界を自分に同調する「味方」と、そうでない「敵」とに分ける二分法的思考により対立を煽り深める(「敵か味方か」の二分思考)
の3つの「エセ真理」が信奉されて育てられることで、ちょっとしたことも危険と感じて不安になり、その不安を増大させ、そうした感情や感覚を共有しない人を「敵」と見做すようになる、という主張を軸に、「偏った考え方をし、脆くて不安で容易に傷つく学生」を育てた状況や、彼らが引き起こしている問題などを記述。
<要点>
・反脆弱性について
人は困難を経験することで学び、克服することで成長し、頑健になる。これに対し、子どもをあらゆる困難や危険から守ろうと過保護にすると、子どもは客観的にはまったく危険性のない状況でも大げさに恐怖心を示すようになり、一人の大人として生きていく力をつけにくくなる。
・感情的決めつけのこと
意に反した評価をされたり、期待に応えてもらえずにがっかりすることで「気分が害される」ということと、具体的な危害が加えられるといった「安全でない」ということとが一緒くたにされている。例えば、PTSD(心的外傷後ストレス障害)は、「ひどい苦痛を伴う症状をほぼすべての人に引き起こし」「人が普通に体験する範囲を超え」た恐ろしい体験により引き起こされるもの、とされている。つまり、「主観的にひどい苦痛」と感じた経験であっても「人が普通に体験する範囲」で「多くの人にひどい苦痛を伴う症状を起こさせない」ような体験は、主観的にはPTSDのように感じたとしても、本来的には、客観的にはPTSDではないと扱われるものである。しかし、こうした客観的な判断より、「主観的にPTSDだと感じた」ことが肯定されるようになっている。
このような「主観的な判断、個人的な解釈」が正しいと肯定されることで、他人の言動を主観的に「悪意がある」と解釈してしまった場合、本人に悪意がないことを確認するといった行動に誘導されることなく「悪意を持っている」という自分の解釈に引きこもるようになる。
・敵か味方かの二分法
反脆弱性と感情的決めつけにより、自分の感情や考えが「正しい」という考えに固執するようになると、自分の感情や考えと異なる考えや思想を排外する。異なる考えなどを持つ人は自分の感情や考えを害する敵とみなして世界を敵か味方かに分け、異なる考えなどを持つ人とも人として折り合える「人類の共通性」を見出そうとしなくなる。
・SNSの影響
3つのエセ真理で、「あらゆる危険や困難から保護され」「主観的な悪感情を肯定され」、自分と異なる考えなどを持つ人を敵とみなす、脆弱で不安感にさいなまれ、被害者意識が強い若者は10代という人格形成期をSNSプラットフォームに没頭して過ごした世代に顕著である。この世代は、リアルに他者と関わり合うのではなく、一人で画面と向き合う時間がはるかに多い中で10代を過ごした。デジタルメディアの使用と心の健康問題とは近年、どちらも増加し、その増加に相関関係が認められている。画面に向かう時間が1日2時間以上になると、画面の使用時間が1時間増えるごとにうつ病のリスクが増える。
・親の属性
子どもを過保護にする程度は、社会階級によって違いがある。中産階級、高学歴な親は、労働者階級の親に比べて、メディアの情報を受けて過度に安全を気にして子どもを監視し、過保護に育てており、近年、一流大学で観察されている「傷つきやすい大学生」の脆弱性は、こうした親に過保護に育てられたことが要因になっていると考えられる。